世は戦国時代。匡介は8歳の時に織田軍に攻められた一乗谷で、一家で逃げ惑ううちに父と妹とはぐれ、群衆で身動きできない母から「子どもなら足元を潜って抜けられる。早く行きなさい」と繋いだ手を放されて、山に逃げます。
そこで岩や石の声を聞きながら道を探して行き、源齋という中年の男と出会います。山上から炎に包まれた城下町を見て、一緒に反対側に下ります。
源齋は石垣造りの親方でした。岩の声を聴ける匡介を見込んで、養子にします。
穴太衆飛田屋は、信用の厚い集団でした。山方は山から石を切り出し、荷方は切り出した石を現場まで届け、積方は石を積んで石垣を造ります。
匡介は、積方となって22年修行をしました。まだ己れだけでは石を組ませてもらえません。30歳になって、源齋から山方と荷方を3ヵ月ずつ経験するように命じられます。
山方の小組頭は段造。匡介にとっては親方の源齋より一歳年下の叔父のような存在。山での石の切り出し方を指導されます。ただ石の声が聞こえるので上手くいきました。
荷方の小組頭は玲次。匡介と同い年で源齋の甥です。肉親なのに、後を継がせてもらえなかったことを恨んでいます。そのため何かと匡介に突っかかってきました。
切り出した石を地車、石持棒、修羅(筏のように丸太を組んだものに縄が付いている)に積んで人や牛馬で運びます。その労力の並みでない大変さを経験し、てきぱきと采配をふるう玲次の能力に、匡介は感服します。
積方の小頭としての匡介は、石垣は見た目の美しさではなく、誰にも打ち破られない堅さだと思っています。けれど源斎は厳しく、500年で一人前、300年で崩れれば恥、100年などは素人。1000年保つ石垣を造れてようやく半人前という厳しい目標です。
少し戻って天正10年(1582年)本能寺の変。明智光秀は全国の大名に、自分の味方につくようにと文を出します。近江の諸大名が次々と明智に下る中、日野領主・蒲生親子は突っぱねます。
光秀は日野城の攻略を窺います。しかし日野城は改修の最中で、石積みを飛驒屋に依頼していました。源齋は42歳。飛驒屋一同160名を連れて、突貫で石積みを請負っていました。
石組みを始めたとたんに敵が攻めてきました。鉄砲と矢が飛び交う中を、職人たちが石組みをしていきます。ここの場面は、大河ドラマを見ているようで、ハラハラドキドキです。
結果は石垣を造るのではなく、崩して、敵を捕らえ、和議にもっていきました。
ここまでで厚さ4、5cmの本の3/1。最後には大津城を守る石垣と大砲の決戦もあります。石垣職人たちの技と働きを、応援してしまいます。
さすが、2021年秋の直木賞を取った作品です。
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