江戸時代の日本からローマへ行って帰って殉教した男『殉教者』(加賀乙彦)                                   

殉教者

*今はアドベント(待降節)です。クリスマスを祝う日曜日から4週間前の日曜日より、クランツの4本のローソクに1本ずつ火が灯ります。11日には2本、18日には3本、25日の当日には4本のローソクが輝きます。その季節にふさわしいイエス・キリストに関わる物語を選びました。

17世紀の初め、徳川家康はキリシタンを迫害しました。1587年、ペトロ岐部は長崎のキリシタンの家に生まれ、セミナリオという初等神学校を卒業しました。迫害から逃れるため、船で日本を脱出します。40日目にマニラに到着します。そこで知り合いの神父の世話になり、切符も手配してもらってマカオへ向かいます。最終的に行きたい場所は、エルサレムです。

マカオに着くとマニラよりも暑いのに驚きます。日本から追い出された神父、伝道師、神学生がひしめき合っています。その中で、ミゲルと小西という年下の友人ができました。長崎で布教していた神父とも知り合い、ゴアへ行く資金を集めてもらいます。3人は1617年5月にやっとゴアに着きました。

ゴアはポルトガルが東洋の国々と貿易や宣教をするための最大の基地でした。ザビエルの遺体の保存してある大聖堂を訪れ、祈りを捧げました。ザビエルが鹿児島に辿り着いたのは、68年前の出来事です。ミゲルと小西はリスボン行きの船で去って行きました。岐部は1619年、ホルムズ島に着きます。

ウブッラでラクダの隊商に雇われ、砂漠を越える旅をします。強健な体が役に立ちます。顔を布で巻いて砂嵐に耐えます。オアシスで水を飲み、古代遺跡を通りバクダードに着きましたが、観光する暇はなく、パルミュラ遺跡に着きました。エルサレムが近づいたと喜びます。

アレッポに着いて給料をもらい、そこからは一人旅です。ダマスカスではサウロ(後のパウロ)の回心を思い、歓喜がみなぎります。ヘルモン岳を眺め、ゴラン高原を横切り、ガリラヤ湖に到達します。岸辺は花園です!イエスが「野のゆりを見よ」と説教した場所です。湖の水で墨をすり、日記に「1619年5月末、ガリラヤ湖に到達す。神の花園…」と書きます。

この湖で網を打っていたペトロとアンデレ兄弟は「私に従いなさい。人をすなどる者としよう」というイエスの言葉に従います。岐部は聖書の御言葉を唱えながら先へ進みます。ゲッセマネのオリーブ林でぐっすり眠りました。翌朝エルサレムの城門から、目的地に入りました!

イエス・キリストの受難の道、ビア・ドロローサをありがたく辿ります。フランシスコ会の修道士は、仕事をすれば泊めてくれる宿に泊まり、午前中は雑用と80歳の老神父の世話をして、午後は自由にエルサレム市内を歩き回りました。ゴルゴダへは何度も行き、イエスの空虚な墓も訪れました。そしてイエスの後を追って死のうと決心します。

岐部は再びダマスコスへ戻り、再びラクダ引きに雇われ、イスタンブールを通り、アッシジに寄り、大都ローマに入ります。35年前に天正の少年使節団が訪れ、歓迎された都です。しかし今は日本を追われ、一人感謝してこの地を踏みます。

イエズス会の本部で試験を受け、入会を許されました。念願だったイエズ会の修士となり、祈りと学びの日々が始まります。親友ミゲルとも再会します。2年間の修練期間を終え、帰国の許しを得ました。

1623年3月25日、岐部の乗った艦隊はリスボンを出ました。船旅の困難や他国からの襲撃にも耐え、マ二ラのイエズス会の宿舎に入りました。そこで古船の修理をして、世話になった神父や地元民の見送りを受けて出発します。嵐にあったり苦難の末、1630年7月に薩摩の坊津に着きました。そこから懐かしい長崎へ帰りました。しかし身内は全員亡くなっていました。

小西マンショと再会します。九州にいたのでは信者たちの信仰を守るのは難しいという。そこで東北へ行くことにします。伊達家が藩士全員の宗門調査をしています。住職の寛大な取り計らいで、岐部は寺の本堂の下の大広間で宣教しました。けれど密告により、捕まってしまいます。1639年、縛られて江戸まで徒歩で辛い旅をしました。

20日間の取り調べの後、逆さづりの刑。寝返る神父も出ました。けれど岐部は長い旅の日々を思い出していました。そしてエルサレムでの歓喜の日々…ローマでの叙階、船旅での帰国の途…「52年の我が人生に悔いはない」。喜びに溢れて大きな闇に呑み込まれていきます。

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