博士の人生と植物愛が判る『草木とともに 牧野富太郎自伝』(牧野富太郎)

書評の記事には紹介のため広告リンクが含まれています。
草木とともに

*4月からNHKの朝のドラマで牧野富太郎博士の物語が始まります。主演を神木龍之介が演じるので、とても楽しみです。大袈裟に言うと、私は牧野先生の孫弟子ではないかと思います。50代の10年間、月一回の植物観察歩きで指導してくださった先生が、牧野博士のお弟子さんだったからです。どんな小さな草の名前も教えてくださった恩人です。

1862年⁽文久2年)4月、幼名成太郎は土佐国高岡郡佐川村に生まれました。4歳の時父が亡くなり、6歳の時母が亡くなります。生家は酒屋で、その跡継ぎだったため、祖母が大切に育ててくれました。後に富太郎となります。子供のころから野山を走り回って、植物を観察するのが好きでした。

10歳の時、寺子屋で学びます。武士の子弟がほとんどで、町人の子は二人だけでした。明治7年に小学校が出来、入学しました。成績がよくて上級まで上がりましたが、卒業はせず高知の塾に入ります。そこで永沼小一郎先生と出会います。この先生は博学の士で、大いに影響を受けました。

20歳で、2人のお供を連れて東京へ出ます。日光、伊吹山で採集をして帰郷しました。

23歳の時、再び東京へ出て下宿します。東京大学の植物学教室に出入りを許されます。友人たちと「植物学志」を出します。

27歳頃、下宿から人力車で東大に通う途中の和菓子屋に座る美しい娘を見初めました。毎日のようにその店でお菓子を買い、石版屋の主人に仲立ちになってもらい、結婚しました。

東大の給料は安く、子供が増えていく家庭は貧しかったです。妻の壽恵子は影になり日向になって彼を支えました。借金がかさんだ時などはどんなに辛かったでしょうが、植物一筋の夫に黙って尽くしました。壽恵子は55歳で病気になり、亡くなりました。笹の新種に「スエコザサ」と命名しました。

跡継ぎの責に縛られず、貧しさにもへこたれず、教授や同輩の嫉妬にもめげず、ひたすら好きな植物と向き合いました。新しく見つけた植物には命名し、植物についての本を何十冊も出し、何人もの弟子を育て、天皇陛下に植物のご進講をし、文化功労者となり、自分の人生に悔いるところはないと、96歳で亡くなりました。

*この本には命名を間違えている植物の本名がずい分出てきます。その一つがナンジャモンジャ。白い小花がこんもりと咲きます。間違えられるのは、ヒトツバタゴ、ウスバヤブニッケイ、バクチノキ、などです。私も好きな木なので、気をつけましょう。私の祖父先生、良い人生でしたね!清々しい気持ちになりました。

  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA