痛々しい戦後日本のある家族の話『さよならは祈り 二階の女とカスタードプリン』(渡辺淳子)

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さよならは祈り

*平成27年の話と昭和26年から41年までの話が交互に出てきます。その形でここに記すのは難しいので、初めと終わりだけ記します。

・昭和26年10月、服部家は進駐軍キャンプ大津A近くの長屋に住んでいました。父は日雇い労働者、母は足が悪く、子どもは、外へ働きに出た父の連れ子の長男の正一のほかに5人もいました。生活のために2階の一部屋をパンパンのキャリーに貸していました。彼女のダーリンは進駐軍将校のマイケルです。しばしばキャリーを訪ねてきて、お風呂まで使って楽しそうです。お風呂に水を入れて沸かすのは次男で10歳の勇の仕事でした。

食べ物も乏しく、ご飯にお醤油をかけて食べるのが精いっぱい。イナゴをたくさん獲った日にたんぱく質が取れるぐらいでした。家主のおばさんに「また貸しはいかんよ」と強く言われても、貸さなければ暮らせない日々でした。大みそかに正一兄ちゃんが大阪から帰ると、弟妹たちはリュックに群がります。ビスケット、あめ玉、羊羹、まんじゅう・・・宝石のように輝いて見えました。そして食費を渡してくれます。勇は大喜びで買い出しに行き、スジ肉と卵を買ってきました。牛筋肉の醬油煮とゆで卵は、大ご馳走でした。

毎年2月に進駐軍カーニバルが催されました。ゲームをしたり、お菓子を食べたりできました。マイケルとキャリーも仲良く一緒にきて、機嫌よく抱き合っていました。

キャリーが妊娠して、男の子を産みました。西洋人そのもののかわいい子で、ケントと名付けました。けれどそのころからマイケルは来なくなり、キャリーは体調が悪そうでした。ケントは一階で母や子どもたちと過ごすことが多くなりました。一家の人気者になりました。その年の暮れに帰宅した正一は怒りました。「こんな明らかにアメリカ人の子とわかる赤ん坊を育てて・・・」。兄は早くに実母をなくして愛情に飢えていたのに、継母は家の中を不道徳なもので満たしている、と怒っているようでした。

マイケルは長崎に転勤になったそうです。ケントの養育費をくれただけで、さよならも言わずに行ってしまいました。キャリーは腎臓病になって、入院することになりました。ケントは神奈川の孤児院に入ることになります。みんな都合がつかず、勇が連れていくことになります。ケントを兵児帯で背負い、往復の切符と少しのお金を入れた巾着袋を母から貰って、首にかけました。

道中、ケントが泣くと怒鳴られたり、乗り換え駅でミルクを飲まそうとしたら哺乳瓶が転げ落ちて線路で割れてしまったり、大事な巾着袋の中身を盗まれたり、ひどい目に遭います。ところが親切なアメリカ人将校の夫妻と出会い、彼らの個室に一緒に乗せてもらえました。寝台で寝、オムレツとチキンライスの夕食をご馳走になり、プリンの食後まで出て、ミルクをたっぷり飲んだケントと共に二人ともご機嫌になりました。

熱海駅で大磯までの切符を買ってくれ、「がんばれ、グッバイ」と見送ってくれました。大磯駅からは地図に従って、歩いてトンネルをくぐり、目的地へ走りました。キャッキャッとと喜んでいるケントを背中に感じながら。これからは自分の人生は自分で切り開こう、と元気が出ます。

退院したキャリーは引っ越します。その手伝いも勇です。ケントを孤児院に預けた時のことを話すと、「ケントに遭いたい~~」と大泣きします。そして「あんたのこと忘れへんわ」といいます。その後結婚しましたが、64歳で亡くなりました。

大人になったケントは、母親に会いたいと勇を訪ねてきたそうですが、自分がウロウロするのは迷惑だろうと、手紙が来ました。「パティシエになろうとしたのは、ホームのママに勧められたからで、住み込みの修行を経て、30歳で独立した店は繁盛しています。23歳で結婚して子どもが4人います。賑やかな人生を送っていますが、ほんの数カ月でも服部さんの家で暮らしていたと聞いた時は、涙が出そうになりました。自分を捨てた母でも会いたかったですし、大津市がどんなところかも知りたいです。どうぞ兄さん、私の店にきてください。お待ちしています。追伸:大したおもてなしはできませんが、カスタードプリンは、県外からも買いに来られるくらい評判がよいです。」

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