理系作家のエッセイ5編『八月の銀の雪』(伊与原 新)

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八月の銀の雪

☆八月の銀の雪:就職活動中の堀川は、どこも落ちてイライラしています。いつも行くコンビニの店員、アジア系の女の子のもたつきにも腹を立てます。ある日、同じゼミだった清田に声をかけられて、調子のよい商売に誘われます。仮想通貨を預かって運用するのだそうです。堀川は人と話すのが苦手です。清田が誘ってきたのは、自分が面接をする時にそこに居てほしいと言う話でした。仕方なく引き受けましたが、なんだか人を騙しているようで、落ち着きません。

ある日、カバンの中から英文の論文のような紙が出てきました。余白に東南アジアの言葉のような文字が書いてあります。そういえば、あの店員が失くした論文を探している、と言っていたのを思い出します。早速彼女に見せると、当たりでした。ベトナムの名門大学から奨学金を支給されて、日本で地震の勉強をしているそうです。けれど奨学金を貰っていたらアルバイトはいけないそうです。それでも妹への援助になるために、アルバイトは欠かせないそうです。そして彼が作っている段ボールのロボットを励ましてくれました。

彼女の研究室を訪ね、論文の内容を聞きます。「地殻は薄くてその下に分厚い岩石の層があります。月より遠い距離にある芯は鉄でできています。そして外核の底で生まれる凍った鉄が雪のように静かに落ちていきます。私はもっと頑張って、銀の雪の音を聞きたいです」。堀川は、人を外見だけで判断してはいけないと悟りました。

☆海へ還る日:自信がなく、世の中は敵のように見えるシングルマザーの私は、混んだ電車の中でぐずり始めた娘の果穂に手を焼いています。そこで果穂に席を譲ってくれた年配の女性から、クジラの特別展のチラシを貰います。心臓に小さな欠陥のある果穂を病院に連れて行った後、上野の国立自然史博物館に寄ります。大きなシロナガスクジラの展示をしていました。電車でチラシをくれた女性は、この館のスタッフでクジラの絵を描いていました。クジラについての講演を聞いている間、女性は果穂と遊んでいてくれました。

「イルカやクジラは餌を探すのも仲間と話すのにも、音を出し合っています。クジラの脳の力は人間よりも大きいです。子供は母系グループの中で育ちます。人間もクジラも父親は役に立ちませんね(笑)。地上にはヒト山が聳えていますが、海の中には、クジラ山が聳えています。」砂に埋まったクジラを見に、果穂と海辺に来た日、この子には世界をありのままに見つめる人間に育ってほしい、と願いました。

☆アルノーと檸檬:正樹の故郷は瀬戸内海の島のレモン農家です。祖父も父も安全で味のよい檸檬を作ることだけを考えていて、正樹には愚鈍に見えました。家の仕事は手伝わず、映画のビデオばかり見ていました。19歳になろうとする時、東京に出ました。同じ夢を持ち、似たような境遇の順也と同じ劇団に属しましたが、順也は役者の道へ、正樹は結婚して別れて、独りになり不動産会社の正社員になりました。

今の仕事は、取り壊しが決まっているアパートの住人に出ていってもらうことです。303号室のおばあさんを訪ねると、ベランダで鳩を飼っていました。この鳩は足環をつけていて、早朝に飛び立つとどこかへ行き、夕方帰ってくるそうです。足環には、アルノー19と彫ってあります。

調べてみると、東洋新聞で報道用伝書鳩を訓練していたそうです。新聞社を辞めてからも鳩を飼って訓練していた老人がこの近くにいたそうです。伝書鳩は自分の飼い主の家を間違えたりしないそうです。しかしアルノー19号はどうしたのでしょうか。分かりました!アパートの前には新しくタワーマンションが建って、景色が変わってしまったのでした。

おばあさんは帰ってきたアルノー19を抱きしめます。「毎日必ず帰ってきてくれるのよ。可愛いねー」と言って。正樹は八百屋で檸檬を一つ買い、今夜は薄くスライスしてラムの炭酸水割りに浮かべようと思います。

*その他、「玻璃を拾う」と「10万年の西風」が加わって5編です。どの話にも迷っている人が登場します。それが現在の若者の姿なのでしょうか。

著:伊与原新
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