フェアーで活動的な『お嬢さん放浪記』(犬養道子)

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お嬢さん放浪記

*1948年から58年の間にアメリカとヨーロッパに滞在しての見聞・行動録です。その心意気と行動力、そして文章のうまさに感動しました。

「アメリカ」:昭和23年秋、私は留学生としてマサチューセッツ州のボストンに、2年間の奨学金を貰って出発しました。松や白樺の美しい土地です。講演をするというアルバイトも見つけました。ところが夏休み中に倒れ、肺結核でかなり進行していると診断されます。帰国しようと思ったところ、親切な知人が療養費を出してくれて、カリフォルニアにあるサナトリウムに入院します。他の人の見舞いにきた海軍士官と話をして、パラシュートの紐がたくさん余っていて困っていることを知ります。そこでその紐を全部もらい、ベルトに編みます。どんどん売れて、お小遣いになりました。

ところが警察官がきて、奨学金を貰っている学生は病気になったら帰国せねばならない。しかもアルバイトするとは、刑務所行だと逮捕されそうになります。病院長でもダメで、父親が吉田首相の特使として渡米して来た折にやっと片をつけてくれました。

サンクスギビングの日には友人の誘いで、アイルランド系の家族のお宅に招かれ、そこで大勢の人々と知り合いになり、たくさんのプレゼントを頂きました。人間は皆同じなのだと実感します。

シカゴで汽車をのがしてしまい、お金は預けてしまい、現金は少ししかありません。聖堂を見つけて入ると、神父が無料で泊まれる所へ案内してくれました。「シカゴ黒人専用養老院」。出てきた黒人女性に託されました。ガード下の狭い場所で、黒人の老女と2人部屋です。買い物を頼まれて、スラム街を一回りしました。これがアメリカ?!というぐらい酷い街でした。1ドル紙幣で食べ物、飲み物、お花を買って帰ると、同室者がとても喜んで黒人霊歌を歌ってくれました。どんな歌手の歌よりも心に沁みる歌声でした。

「オランダ」:「オランダの田園風景は、砂漠の景色に似ている」とある少女が言ったように、荒涼と厳しい風景です。人口100万のアムステルダムは、運河によって抱かれています。冬になると凍った運河を誰もがスケート靴で滑って行きます。家の中は暖かく、炉端で家族団欒がなされます。

春はチューリップ畑。咲いて3日めには、つんで世界各国へ。それでも残った花は、華舟に乗せて運河で流します。そして夏。その間に野菜や果物を瓶詰にします。秋には球根の選別、世界一の球根輸出国です。そしてゴッホ美術館で名画を見、コンツェルトへボウで音楽を堪能します。

国土の10分1に相当する湿地は埋め立て事業によって住宅地になりました。そのためバーなどの消費場が極端に少ないです。炭鉱夫の街は整然としていました。アムステルダムから汽車で20分ほどの街ヒルバサムには広々とした学生サナトリウムが建っていました。設備が整っています!私はもう一度療養したくなりました。韓国人の学生の一人がこう言いました。「アジアは悲しい所ですね。国土が狭い、貧しいだけではなく、隣人愛が足りません」

「スペインへ行く車内で」:スペインへ行く列車の中でやっと一人分の席に座れました。ところが周りは7人のイタリア男たちです。身構えてしまいましたが、お腹が空いたので持参した黒パンを出して食べ始めました。するとイタリア男たちは、口々に「ひどいパンを食べているぜ。こいつは何人だろう。こんなパンはドイツ人しか食わないと思うけど」と言い立てます。「いや、きっとオランダ人だ」という結論が出ました。そして自分たちのバッグから真っ白いパンと琥珀色のワインを出して、ご馳走してくれました。あまりの美味しさにお礼を言うと、「ぜひ家にきてください。美味しいパンと葡萄酒を、いつでもご馳走しますよ」と招待してくれました。

「パリで」:パリでの暮らしは厳しかったです。物価は高い、アルバイトは見つからない、で、セーターも大事な本も質に流してしまい、公園でパン屑をもらっている鳩を羨ましく思っていました。その夜から高熱を出して3日間飲まず食わずで寝ていました。友人が訪ねてきて、びっくりして煮炊きから洗濯まで全部やって、5000フラン寄付してくれました。涙がこぼれました。

パリに留学したものの、お金に困り友達もなく身を落とす留学生がいることを知り、夏の2か月間オープン・ハウスをしようと思い立ちます。友達を巻き込んで、まず無料で貸してくれるお城を見つけました。ノルマンディーのグランビルという所です。ただ、修理が必要です。それからアメリカ系の事務所にかけあって、無料で缶詰とミルクを手に入れました。寝具は赤十字に掛け合って、病人がいるということで、70人分用意できました。その上、西ドイツから30人ほどの大工見習の青年たちが来ると聞きます。ドイツ語のできる友人に手紙を書いてもらいます。「パリから1時間のお城です。寝場所と食料は用意してあります。ただ、少し修理をしていただければいいのです」。彼らは道具を持って喜んで来てくれました。そして広告を出しましたら、世界各国から大勢の若者が集ってきました。

ところがその幕開けの前に、私は病気で倒れて療養することになり、日本へ戻りました。

*今から70年以上前に、こんなにフェアーで友情を大切にして世界へ出ていったお嬢さんがいたとは!読み進むにつれて感動が湧いてきます。今にも通じる心構えだと思います。

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