俵屋宗達は、京都の扇屋の息子です。幼いころから絵を描くのが好きで、父を手伝って扇の絵を描いていました。彼が描いた絵の扇はよく売れました。数えで12歳になった時、織田信長から安土城へお召がありました。殿の前で絵を描いてほしいというお達しでした。
父親の心配をよそに、宗達はいそいそと出かけます。広間で頭を下げていると、信長は南蛮風のいでたちで現れました。そして扇屋の子倅を面白そうに見ます。「余の見たことのない珍しいものを描いてみよ」と仰せになり、2枚の杉戸が運ばれてきました。
宗達はしばし考えた末、母と子・2頭の像を白い胡粉を使って一気に描きました。それは南蛮寺の襖絵に描かれていて、遊びに行くたびに見とれていた絵でした。信長は立ち上がって杉戸を見下ろし、つくづく眺めてから、「見事じゃ」とおっしゃいました。
その後、父親は宗達を絵師集団として誉れ高い加納家に修行に出します。そして再び加納永徳と共に7日間でし上げた「洛中洛外図」を信長の御前で披露することになります。信長は「この傑作を余に預けよ。天下を治めるために役立てよう」と申されました。
1582年⁽天正10年)2月、九州のキリシタン大名の名代としてローマに派遣される「天正遣欧使節団」の少年たち・伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノに加えられて俵屋宗達がいました。表向きは印刷技術を学ぶためですが、信長より秘密のこととしてローマの絵地図を描いてくるように言われています。
宣教師、修道士、世話役、船員たちを乗せた南蛮船は南に向けて出発しました。最初の寄港地はマカオ。そこで10カ月ほど風待ちのため逗留します。少年たちはセミナリオに通い、宗達はポルトガル語とラテン語を習い、印刷機の使い方を教わりました。そして原マルティノとすっかり仲良くなりました。
その後出航したものの、嵐に翻弄されたり、暑さに消耗したりしますが、少年たちの中では宗達が一番元気で、皆を励ましました。そして父に持たされた扇が宣教師に喜ばれました。
*遣欧使節団にからめて、宗達をローマに行かせるなんて!? マハさんの豪快な創作です。(下)を楽しみに読ませていただきましょう。
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