この小説では、帝国図書館の歴史と喜和子さんという個人の生涯の物語が交互に語られます。実は私はこのタイプの進み方が苦手で、どうしても一つの話の方を続けて読みたくなってしまいます。
ここでは帝国図書館の歴史を先に、喜和子さんの生涯を後でまとめて書こうと思います。
「帝国図書館の歴史」
洋行帰りの福沢諭吉が「ビブリオステーキ(文庫)がなくては近代国家とは言えない!」と叫んだことで、明治政府は文庫を作ることに。
明治5年3月、文部省博覧会が催されるついでに書籍館が併設。初代館長の永井久一郎が情熱をかけて7万冊超の蔵書にした。明治10年、西南戦争にお金がかかるという理由で、この事業は廃止。蔵書は東京府へ払い下げられた。湯島聖堂大成殿で開館。
明治13年、再び文部省へ戻り、明治18年に東京図書館となる。この図書館に毎日通った文士は、淡島寒月、幸田露伴、夏目漱石。
明治19年11月、上野の森に閲覧室の入った建物を新築。樋口夏子(一葉)が頻繁に図書館に来て本を読んだ。
明治30年4月「帝国図書館官制」公布。田中稲城が初代館長になる。明治37年に日露戦争が始まり、東側ブロックしかない状態で39年竣工式、帝国図書館を開いた。
このルネッサンス様式の美しい図書館に魅せられた文士たちは、和辻哲朗、菊地寛、芥川龍之介、宮沢賢治。
大正12年9月の関東大震災。激震に耐えて、焼け出された人たちの仮の避難所になった。
昭和になって、宮本百合子、林芙美子が熱心に通う。
昭和3年、森清『デューイ十進分類法』の体系を基にした分類法を取り入れた。
昭和16年、太平洋戦争勃発。香港大学の図書館から111個の木箱を上野の図書館へ送る。
昭和18年7月、東京府が東京都と名前を変えた。隣の動物園の14種27頭が殺された。帝国図書館の蔵書は長野県立図書館に運ばれた。
昭和20年8月15日、職員はラジオに最敬礼して終戦の詔勅を聞いた。そしてGHQに見つからないように、軍事資料を軍に渡した。
昭和21年11月、GHQのフィリップ・キーニーが占領期初代図書館担当官になる。略奪図書の返還と疎開図書の引き上げをした。この年、男女一緒の閲覧室になる。
昭和22年12月4日、帝国図書館は国立図書館となる。国立国会図書館に役割をゆずり、上野の図書館はその支部となった。
その頃、6歳ぐらいの喜和子は上野の図書館の傍にいた。
「喜和子さんの生涯」
フリーライターをしていた30代半ばの作家が喜和子さんと出会ったのは、上野の噴水の見えるベンチです。60歳の喜和さんは白髪のショートカットで、ズダ袋のようなスカートをはいて、色とりどりのパッチワークをした上着を着ていました。私が作家だと言うと、「図書館の小説を書いて」と言いました。
その後、時折り上野界隈を一緒に歩いたり、芸大の裏の方にある小さな彼女の家に行ったりしました。本が沢山積んであり、樋口一葉全集もありました。二階に下宿させている芸大の学生や恋人だった元大学教授を紹介されます。その頃が喜和子さんの生涯で一番良い時期だったようです。
彼女は男尊女卑思想の強い九州の宮崎で育ち、何故か5,6歳のころ上野のバラックでおにいさん二人と暮らしましたが、その後また宮崎に帰り、結婚しました。婚家が嫁を人間扱いしない家で、一人娘が成人すると、家を出て上野広小路へ。
飲み屋で働いている時に大学教授と出会い、マンションの一室に囲われます。奥さんに知られて解消してからは、一人で粗末な一軒家で自由に暮らしています。
かなり疎遠にしていて訪ねてみると、家は無くなっていました。70歳は超えていた喜和子さんは、老人ホームに入っていました。そこでシャネルのスーツを着て喚いている娘と出会います。
親族の身元引き受け人がいないと入れないため、娘の住所を書いたことを、娘は憤慨しています。「今まで行方不明だったのに・・・」と。
そして喜和子さんは亡くなります。海に散骨、と望んだのに、お墓に入れられます。そこへ20代半ばの孫が登場。彼女と元芸大生、元教授たちとの思い出話から、やはり散骨をすることに。孫が母親に「お母さん大好き」と言って納得させ、東京湾に船を出して、無事に散骨しました。
母親が突然いなくなって、娘も寂しかったのでしょう。
あの時代の女性にとっては稀ではない人生だったかもしれませんが、数年でも花開いた時期があってよかった、とホッとします。
そして一緒に暮らしたおにいさんの一人が書いた「としょかんのこじ」という薄い本が残されていました。
本好きの人間にはたまらなく魅力的な物語です。
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