今の看護師が80年前の戦時下に行ったら・・・『晴れたらいいね』(藤岡陽子)

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晴れたらいいね

紗穂は24歳の看護師です。受け持ちである雪野サエの様子を診にきました。95歳、脳梗塞を起こしてもう3年も意識不明です。ところがその夜、サエの意識が戻り紗穂の腕を握ります。そのとたんに大地震が起こりました。病室が逆さになった気がして、強い吸引力に吸い込まれました。

紗穂が気が付いた場所は、昭和19年8月の戦時下のマニラでした。しかも周りの看護師たちに「雪野さん」と呼ばれ、頭を打っておかしくなったと勘違いされます。そのため、雪野サエを演じることにしました。

サエは日本赤十字社の看護婦で、招集されて婦長のもと20名の仲間たちと働いています。次々に運ばれてくる兵隊たちの傷の手当、時には手術にも立ち会います。忘れないために毎日、従軍手帳に記録することにします。偉い人が通る時は最敬礼をしなければならないと言われ、士官・准士官・下士官・兵と、順位を記します。

親しくなった美津によると、昭和17年1月に日本軍がマニラを占領したとのことです。看護婦は3交代制で、2週間に一度休日があります。街歩きから帰ると、現地の子供・マリオが包帯洗いを手伝っていました。お互いに助かるのだそうです。

7月にサイパンが全滅してからは、しばしば空襲がおきます。医療品も減ってきたようです。9月、米軍機がマニラ港を襲撃しました。病院内は負傷者で溢れます。看護婦たちはきちんと睡眠が取れなくなります。そして日赤救護班はバギオに向かうことになります。荷物をまとめて軍用車に乗り、列車でバギオに向かいます。マリオが泣きながら見送ってくれました。

その列車も敵機に襲われ、ダモルテスからは軍用トラックに乗ります。夜明け前に天空の都市のようなバギオに着きました。病院から宿舎までは山登りです。「何か歌って」と言われて「・・・晴れたらいいね、晴れたらいいね、晴れたらいいね♪」と繰り返しのある歌を歌います。これは1992年にヒットした曲なので、みんな知りませんでしたが、覚えて一緒に歌ってくれました。

ますます負傷者が増えて大変になってきたある日、伍長に集められて手榴弾の扱い方を教わります。これは自決用だと言われてサエは毅然と言い返します。「私は自決なんて絶対にしません。捕虜になっても生き延びて、日本に帰ります」。怒った伍長に、班長の医師が叱られました。

間もなく日赤の旗を掲げているこの病院も爆撃されるようになり、書類は全部焼き、転進するように命令されます。重症の患者は安楽死の注射を打たれました。去る日の前夜にやっと特別食をふるまわれました。5月半ばにバガバッグの野戦病院に着きました。

何もかも竹でできていて、床には草が敷いてある病院です。30分ほど歩いたところに川を見つけて、やっと洗濯できました。地元民の家でトウモロコシ粉を見つけたところで住人と鉢合わせをし、伍長が打った鉄砲が軍医に当たって亡くなりました。体調を崩した婦長は、「ともかく進みましょう」と杖をついて歩き始めました。

食料は、草を摘んだり鳥をつかまえたり蛇を捉えたり、、、と知恵を働かせます。ついに婦長はこの地に残ると言い、サエに婦長代理を任せます。10キロ歩いてキャンガンに辿り着き、転進する部隊と会います。分けてもらった籾を引いて食べてから進みます。そこに流れの急な50メートルほどの幅の川が流れていました。誰もが痩せこけています。

この川を渡ればブキアスまであと一息、みんな背嚢を頭に括り付け、両岸に渡されている蔦を頼りに、一人ずつ渡ることにします。サエが渡る番の時、水かさが一気に増えました。彼女たちの知らないところで始まったこの戦争で、ひたすら人を救うために働いてきた仲間たちを誇りに思う、と思いながら、体が軽くなりました。

*今もウクライナで街を破壊し、人々を傷つけ追い出している戦争・・・。誰のため?誰か幸せになっている? もう止めてください。苦しみ悲しむ人を増やすだけの戦争、止めてください!

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